2014/10/02

アマチュアとプロ



 1つ前の稿で「初心者と経験者」について触れた。あれは実は前フリで、ここ最近ずっと感じていた本当に言いたかったテーマをここに記す。

 初心者だから or 経験者だからと同じく、アマチュアだから or プロだから…といったたぐいの区別もまたよく耳にする。何が違うのだろう?この手の区別、僕は好むところではない。

 確かに現実として、両者には大きな隔たりもある。つまりプロは営利目的集団としての宿命を背負っているが、アマチュアはその限りでないということ。言ってしまえばアマチュアは、単なる趣味の領域として音楽をたしなんでいるのみである。

 では、アマチュアの音楽は趣味・たしなみであるから、アマチュア楽団は厳しさとは無縁のゆるい集合体であってもよい、ということになるだろうか。僕の答えは「ノー」である。理由は以下の通りだ。

 1つ目は、ほとんどすべてのアマオケが演奏会を催す団体である以上、当然のことながら観客に対する責務を果たすべきとの根拠からである。
 100%身内だけの発表会ならいざ知らず、不特定多数の観客を招いて自らの演奏を披露する以上は、楽団の身勝手な自己満足だけに終始できるはずがない。こう言えば、とかく技術的に上手でないといけない…的な主張と受け取られがちだが、僕は「技術的に上手な演奏をすること」=「観客への責務を果たすこと」と短絡的には考えていない。技術的な優劣は、その音楽の価値を決める1つの尺度に過ぎないのだから。
 それよりももっと大切なこと、その時点での自分たちの最高のパフォーマンスを提供しようとする気構えであるとか、音楽表現を行う上での前提となる「心」の部分が重要だと思う。つまり演奏会を開くことに対して、観客に対して、そして音楽に対して、個々の楽団員それぞれに真摯な姿勢でのぞむこと。ここを強調しておきたいのである。

 2つ目は、音楽を創造するという行為そのもの、およびそれに付随する喜びや困難といったものについては、プロもアマもないということ。
 もとより譜面はひとつ。プロ用・アマ用の譜面を区別して書き残した作曲家は、僕の知る限りただの1人もいない。アマチュアといえども、プロとまったく同じ媒体を通じてひとつの音の集合体を作り上げるのだ。
 譜面を前にひとたび楽器を構えた以上、あなたがプロであるかアマであるかなど、もはやどうでもいいことである。性別・年齢・国籍・人種・宗派、あるいはあなたの技量の程度や経歴・社会的立場も含めて、いずれも音楽を表現する上で何ら関係はない。やることはただ1つ。「譜面を元に楽器を演奏する」それだけである。あらゆる演奏家の間に何らの区別も違いもない。

 つまるところ、こういった2つの根拠を意識すれば、「アマチュア楽団は厳しさとは無縁のゆるい集合体であってもよい」などといった考えが、いかに甘いものであるかおわかりであろう。僕が言いたかったことはこれなのだ。

 だからと言って、苦行僧の面持ちで歯を食いしばって譜面に向き合えばいいわけでもない。趣味でありたしなみである反面、音楽を創造する上での厳しさは確かに存在するけれど、その「厳しさ」は、紙一重で音楽の「楽しさ」につながりうるものではないだろうか。それらははじめから織り込み済みで、いわば二枚貝のもう一枚のようなもの。「楽しさ」の境地とは、「楽をする」こととはまったくもって違う。「楽しい音」と「楽な音」…漢字の読み方を間違えてはいけない。プロであろうがアマであろうが、いずれも同じ「音楽家」なのだ。

 ここをわきまえた楽団で、僕は演奏したいと思う。ここをわきまえた楽団に、vioを育てていきたいと思う。

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