2014/05/30

譜面絶対主義の光と影

 

 「譜面に書いてあることを忠実に再現し、譜面に書いていないことはしない」…なるほど確かにそうですね。作曲家からの唯一無二のメッセージである譜面に忠実な演奏を心がけることは、音楽創りの基本中の基本であり、根幹を成す部分でもあります。アンサンブルの入口として、避けて通るこのできない確実な方向性であることに疑念の余地はありません。

 ここを踏まえた上で、以下、私見を。

 実は一つ問題というか陥りがちな罠があって、譜面絶対主義にこだわりすぎると、果たして楽器を用いて何をやっているのかわからなくなってしまうことがあります。つまりただ譜面に描かれた演奏技術に関する箇所だけを抽出して実践することが目的になってしまい、音楽性そっちのけでアンサンブルの目的がぼやけてしまう…というか。
抽象的なことを言ってもはじまらないので、いくつか具体例を挙げるとすれば、「cantabile=ビブラート多め」「dolce=弓の返しで途切れない」「sostenuto=弓をべったり使う」、確かにそう弾くのが望ましい結果を生むのでしょうが、そうすることそれ自体にきっと“音楽”はありません。

 アマチュアであれプロであれ、大切なのはやはり「何故?」を知ることだと僕は思っています。「何故、歌うように?」「何故、やさしく?」「何故、音を長く?」譜面に書かれているor書かれていないという尺度そのものだけではなく、指定された通り弾くだけでもなく、「何故?」という根拠を持つ。ここを疎かにしたまま譜面をさらい続けていると、作曲家の意図した“音楽”にたどりつけず、作曲家が書き残した“譜面”をなぞるだけで終わってしまいかねません。別に、そんなたいそうな理由でなくてもいいのです。例えば、盛り上げたいから、強調したいから、繊細な表現をしたいから、メリハリを付けたいから、情感をこめたいから、etc…。

 僕が練習で時おり言うことなんですが、「持ってくるものは楽器・弓、そして根拠。」というのがあります。根拠とはつまり、弾き手の意思のことであり、スタイルのことでもあります。正しい正しくない、適する適さない、そんな単純な2原論はどうでもよくて、ともあれ弾く上での自分なりの思い、意思、あるいは主体性、そういったものすべてをひっくるめてどう表現するか?を“根拠”と言っています。

 わかりやすく言い直しましょう。例えば譜面に「求愛」と書いていたとします。もちろんそんな楽想記号はないのですが、あくまでも1つの例として。仮にイムジチが「手紙を送る」、水戸室内が「無言で抱きしめる」、vioが「ストレートに告白する」といった表現をしたとしましょう。すると、これら三者はいずれも「譜面絶対主義」を踏まえた上で、それぞれの根拠のもとにそれぞれのスタイルで、「求愛」と書かれたその指定に忠実な表現をしたことになります。

 あるいは、例えば「フォルティシモ」の指定があったとします。それが意味するところは何なのか?表現の仕方は一通りではありません。誤解されやすいことなのですが、「フォルティシモ」という指定は、決して「何デジベルの音量で」という数学的なものを意味しているわけではないのです。そこに至るまでの音楽的なつながりや関連性、つまりは脈絡=物語があるはずです。これを無視して断片的に「何デジベルの音」を出したとしても、きっと音楽的な表現にはならないでしょう。単に「フォルティシモ」=「大きい音」ではありません。

 もちろん、安定したボウイングや正しい音程で譜面に書かれたことを忠実に再現するのは、当然の前提ではあります。しかし、それは技術論的なことに過ぎません。完璧な技術が感動的な音楽表現につながるかと言えば、必ずしもそうではない。技術は方法手段の1つであり、それ自体が音楽的表現になりえることは、まず有り得ません。もとより音楽の授業ではないのだから、自分たちなりの根拠付け、つまり解釈、つまり個性の発揮を目指すという視点も、大切なことだと僕は思っています。

 これもわかりやすい例なので記しておきます。ハイドンの交響曲第94番ト長調 Hob.I:94、いわゆる【驚愕】ですが、2楽章でいきなり管打でドガシャン!と来るのを単に「フォルティシモ=デカく」で奏するのではなく、「演奏会場で居眠りしている婦人方を起こすためにデカく」と根拠づける方が、音楽的ですよね。ということは、その直前までは必ずピアニシモを守らなくてはならない。何の予兆も感じさせてはならないというスタイルが、ごくごく自然に決まりますよね。

 繰り返しますが、根拠を持ちどう弾くかイメージしてはじめて、演奏スタイルが決まるのです。その上でフォルティシモの音量やキャラクターが決まるのであって、最初から「何デジベルの音」あるいは単に「デカい音」を出すことが目的になってしまっていては、その行為に“音楽”は存在しません。同様に、「ピアニシモからクレシェンドしフォルティシモに至る」という一連の指定がなされていた場合、それが何故そう書かれてあるのか、作曲家の意図は何だったのか?根拠づけて考え、わかった上で奏する。ことこうなると、もはや譜面や技術うんぬんの話ではなく、むしろ“文学”に近いニュアンスが求められてきますね。音楽にも「文脈」といいますか、前後関係やつながりというものは確かに存在するのだと僕は思っています。

 以上みてきたように、譜面絶対主義には光と影の側面があるということを、どうかアンサンブルの場で思い返していただきたく。

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